Quantcast
Channel: 毒女の黒いウワサ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 8463

【感動の実話】50年前のオリンピック表彰式で起きた事件…その後の出来事が彼らの人生を大きく変えた(動画あり)

$
0
0

1968年のメキシコ五輪の表彰台で黒人選手が
人種差別に抗議を示す行動をして大ブーイング。

これに同調した白人選手も非難を浴び、
人生が大きく狂ってしまうことに・・・

 

メキシコ五輪の表彰式で起きた事件

今から約50年前の1968年に開催された
メキシコオリンピックの陸上男子200メートルの銀メダリスト、
ピーター・ノーマン(オーストラリア)。

大会前、ピーター・ノーマンは国からはほとんど期待されない存在でした。
陸上男子200メートルには圧倒的に強い2人の選手、
アメリカのトミー・スミスとジョン・カーロスがいたこともあり、
メダルを取るとは思われていなかったのです。

しかし予選で大会新記録を出すなど大会に入ってから記録を伸ばし、
見事決勝に進出しました。
もちろん、トミー・スミスとジョン・カーロスも決勝に進出。

ピーターは同じアスリート同士、
トミーとジョンと仲良くなり、健闘を誓い合います。

そして迎えた決勝。ピーターは見事な走りで
ジョンとトミーの間に食い込み、2位となりました。
1位は19秒83の世界記録を出したトミー・スミス。
ジョン・カーロスが3位でした。

そしてメダル授与のための表彰台。
ここでトミーとジョンは近代オリンピックの歴史において、
最も有名な写真となる「ブラックパワー・サリュート」と
呼ばれる示威行為を行います。

 

 

 

トミーとジョンはアフリカ系アメリカ人の黒人選手。
2人は黒人の貧困を象徴するため、シューズを履かず黒いソックスを履き、
黒の手袋をはめた拳を高く挙げ、人種差別に対して抗議しました。

 

 

 

↓↓↓なぜ!?動画がこちら↓↓↓

 

アメリカに根強く残っている人種差別

1965年に公民権法が制定されてはいたものの、
アメリカでは人種差別は根強く残っていました。

しかもオリンピックが行われた年の1968年4月4日に
公民権運動の指導者・キング牧師が暗殺されたばかり。

しかし会場はブーイングに包まれました。
そしてその様子は衛星中継で世界に放送されました。

IOCはこのような政治的パフォーマンスを禁止しているため、
トミーとジョンをアメリカ・ナショナルチームから除名、
オリンピック村から追放する命令を下し、
一度は拒否したアメリカもナショナルチーム全体の追放を
ちらつかされたため、要求をのむしかありませんでした。

トミーとジョンは帰国後批判に晒され、
長期間にわたりアメリカスポーツ界から事実上追放されることになります。

「ブラックパワー・サリュート」に関与していないように見えるピーターは
実は「人権を求めるオリンピック・プロジェクト
(Olympic Project for Human Rights 略称:OPHR)」のバッジを
3人揃って身につけていました。

表彰式でトミーとジョンがしようとしていたことを
事前に知っていたピーターは2人に対し
「おれは表彰台の上で何をすればいい?」と申し出て、
同じバッジを付けて表彰台に上がったのです。

Twitterで画像を見る
Twitterで画像を見る
 
Matthew D. Luck@southtrackcoach
 

Today is Peter Norman Day, he along with Tommie Smith & John Carlos took a stand to end racism and paid dearly. . #endracism

  •  

    8

  •  

    Matthew D. Luckさんの他のツイートを見る

Twitter広告の情報とプライバシー
 

引用:https://twitter.com/southtrackcoach/status/917355146430083074

このバッジはオリンピック選手たちによる
平等な権利を求める無言の訴えを示すシンボルでした。

そのため、ピーターはオーストラリアオリンピック委員会からも
不当な扱いを受けることになります。

1972年のミュンヘン・オリンピックの予選会で
3位に入ったにも関わらず代表に選ばれず、
傷めたアキレス腱は足を切断する寸前にまで悪化。
アルコール依存症とうつ病で苦しみます。

ピーターはトミーとジョンの行為を人類に対する冒涜だと
公に非難すれば許すという名誉挽回のチャンスを知らされたことがあるそうです。
しかし自分は間違ったことはしていないという信念を貫き、
その申し出を退けました。

ピーターは2000年のシドニーオリンピックに呼ばれることもなく、
2006年に死去。64歳でした。

ピーターの棺を担いだのはあの日依頼親友として親交を続けてきた
トミー・スミスとジョン・カーロスでした。

 

 

↓↓↓甥が名誉回復のためにしたこととは。。。↓↓↓

 

名誉回復のために映画を製作

その少し前から、甥のマット・ノーマンがピーターの名誉を回復するため、
ドキュメンタリー映画を制作しようと奔走していました。

しかし資金を集めるのにも苦労し、映画『en:Salute』が完成したのは
ピーターの死から2年後の2008年。
敬礼を意味する“サリュート”はもちろんあの
「ブラックパワー・サリュート」のことです。

わずか15館の公開で始まった上映は口コミで人気が広がり、
アメリカなど世界6カ国で上映されました。

オーストラリアの国内外で8つの映画賞を受賞し、
多くの人がピーター・ノーマンの偉業を知ることとなりました。

それが議会を動かし、
2012年にオーストラリア議会がピーターの名誉を回復を議決。

ミュンヘンオリンピックに出られなかったなどのピーターが受けた扱いや
表彰台で行った行為が評価されなかったことについて、謝罪したのです。

ピーター・ノーマンの行為が正しいものであったと
ようやく母国から認められました。

また、トミー・スミスとジョン・カーロスの二人は
ピーターより先に1970年代半ばには名誉を回復。

2005年には黒人の人権のために戦った英雄として
サンノゼ州立大学にあの表彰台の時の銅像が作られました。

 

 

 

↓↓↓銅像の写真がこちら↓↓↓

 

この銅像にはピーター・ノーマンがいません。実はサンノゼ州立大学が打診をしたとこと、ピーターが断ったそうなのです。ジョンが電話でピーターに理由を問いただすと

「二人を支持する人々が自分の替りに表彰台に立ち
記念撮影をすることが望みであると。
自分はブラックパワー・ソリュートを支持しただけで
実際には二人の行為を行なっていないから。」

と答えたそうです。

あの日、ピーターが立った2位の台座には、
「take a stand」と刻まれています。

この言葉には二つの意味があります。

一つは「ここに立ってみて下さい」。
そしてもう一つは「自分が信じたことのために立ち上がりなさい」です。

あれから約50年、私たちはいまだに平等と人権のために戦っています。
ピーターの物語は白人だろうが黒人だろうが人種に関係なく、
平等を実現するのは私たちみんなの戦いなのだということを教えてくれます。

ネットでの反応

・銀メダルの白人選手にもこんなドラマがあったなんて・・・

・ピーター・ノーマンの純粋な人道主義に感動し涙します

・1968年の出来事がつい4年前の2012年に謝罪されるなんて信じられない

・甥の努力も評価したい

 

 

 

 

引用元:http://kwsklife.com/olympic-awardsceremony/

 

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 8463

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>