スタジオジブリ制作の映画『火垂るの墓』には、様々な噂があります。その一つに『火垂るの墓』は放送禁止になっているとの都市伝説です。その理由や真相について追ってみました。
1988年公開の映画『火垂るの墓』は、1989年からたびたびテレビ『金曜ロードSHOW!』で再放送されています。
2013年11月に『火垂るの墓』が4年ぶりに放映されると、ネット上では「火垂るの墓が放送禁止になっていた」と憶測が飛び交いました。
その後2015年8月にも放映されていますが、放送禁止と噂になった理由は一体何なのでしょうか。
なぜ火垂るの墓が放送禁止になったのか?
出典:https://rr.img.naver.jp
物語の舞台は、太平洋戦争末期の神戸。空襲により母親を失った14歳の清太と、4歳の節子。兄妹は親戚の家に引き取られるも邪魔者扱いされ、二人は近くの防空壕で生きていこうとします。
しかし、戦時中は食べ物を満足に調達できず、節子は栄養失調で倒れてしまいます。
出典:http://ghibli-tosidensetu.com
節子のために食糧を確保しようとする清太でしたが、結局節子は亡くなります。その後、清太も栄養失調で死んでしまいます。
映画のラストシーンでは、幽霊となった二人が再会し、高い丘の上から街を眺めます。
そこで見えたのは戦争ではなく、高層ビルが乱立する神戸でした。
戦争の悲惨さが分かる描写の数々に、多くの人が衝撃を受けた作品です。
『火垂るの墓』は、1989年より、日本テレビ系『金曜ロードSHOW!』で8月の終戦記念日前後に再放送されるようになります。1993年からは、1年~3年おきに放映されていましたが、2009年8月の放映後、2013年11月まで約4年間放映されませんでした。
次へ↓ ↓ ↓
なぜ火垂るの墓が放送されなくなったのか
テレビでの『火垂るの墓』の放映がストップしたことに対し、ネット上では様々な憶測が飛び交いました。
例えば、ドロップの商標権問題から、政治思想的な理由、視聴率の低迷が挙げられます。しかし、これらが本当の理由なのでしょうか。
出典:https://rr.img.naver.jp
『ドロップ』の商標権問題
『火垂るの墓』の作中、節子は「サクマ式ドロップ」というドロップの缶を持っていました。この作品の影響から「サクマ式ドロップ」はヒットしました。
当時このドロップは佐久間製菓という会社が発売していたものの、一度廃業へ追い込まれることになります。その後、創業者の三男が会社「サクマ製菓」をおこし、会社の番頭の立場にあった会社「佐久間製菓」をおこしました。
双方とも後継者を名乗りドロップを製造していたものの、裁判となり、結局「サクマ式ドロップ」の商標を使うのが許されたのは佐久間製菓でした。
出典:http://ecx.images-amazon.com
「商標権問題」は火垂るの墓が放映されなくなった件とは無関係のようです。
政治的・思想的理由
また、政治的・思想的理由から放映されなくなったと考える人もいます。
2009年からしばらく放映されなかった『火垂るの墓』。その間、日本の世論が右傾化していたため、放送局の上の方が、「反戦アニメ」の代表である『火垂るの墓』を流さないようにした、との考えのようです。
しかし『火垂るの墓』は2013年11月、2015年8月に放映されており、政治的・思想的理由が理由とは考えられません。高畑勲監督も、見る側の捉え方は別としても、『火垂るの墓』は反戦映画ではないとしています。
視聴率の低下
視聴率の低下を、大きな要因だとする意見は多くあります。
1989年より2009年までの視聴率表を見ると、たしかに『火垂るの墓』の視聴率は下がっています。
2010年からは、一桁台まで視聴率が落ち込んでいます。ほかのジブリ作品が高視聴率を得ているため、一桁台の『火垂るの墓』は低視聴率と言えるでしょう。
出典:http://www.chibenkaku.com
テレビ局としては高視聴率を取れる作品を流したいため、視聴率が原因で『火垂るの墓』の放映がなかったという考えは、説得力があるでしょう。
次へ↓ ↓ ↓
[まとめ]
以上『火垂るの墓』の放映が禁止になったという噂について検証してみました。
ジブリ作品の中でも、泣ける映画として知られる『火垂るの墓』ですが、以前は二桁台だったものの、年々視聴率が低下し、2007年からは一桁台に視聴率が落ちています。
しかし2013年と2015年にも『金曜ロードSHOW!』で放映されていることから、放送禁止の噂はデマだったようですね。
出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com
引用元:http://aikru.com/archives/3353
1988年公開のアニメ映画『火垂るの墓』は、スタジオジブリが制作しました。原作は野坂昭如、脚本・監督は高畑勲でした。
節子のモデルとなったのは、戦時中に栄養失調で亡くなった原作者の妹だと言われています。